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ネズミ取り



以下は、鳥羽省三さんの『臆病なビーズ刺繍』からの転載である。

    「井原茂明氏の『読売歌壇』の入選歌」に就いて(其のⅡ)

2014年01月23日 | ビーズのつぶやき

〇  バレルとふ単位をつかひナノといふ単位つかひて職を退きたり  市原市・井原茂明

〇  パトカーが塀に隠れてじつと待つ対向車線に兎出ぬかと     市原市・井原茂明

 ブログ「天童の家」の記事に拠ると、「掲歌は、どちらも読売歌壇入選歌である。『単位』の歌は、1月13日に俵万智選で、『パトカー』は、20日に小池光選」とか。
 この二首の短歌の創作意図と解釈を巡って、件のブログの管理者・今野幸生さんと作者・井原茂明さんとの間に二通の私信(恐らくは、メール)が交わされ(と推測され)、その展開の大概を今野さんが「暗喩」というタイトルでブログ上に公開したところ、今野さんのブログ上の親友・ころさんと時田幻椏さんがコメントを寄せられ、それに対して今野さんや井原さんが応えるなど、上掲二首の短歌の中の、特に二首目(バトカーの歌)の短歌の解釈や創作意図や寓意を巡って、真に興味深い展開が見られたのである。
 読売歌壇にしろ朝日歌壇にしろ、新聞歌壇に掲載される短歌は、もともと「投稿」という形の「裸身・無防備」のままで投企されるのであり、その「裸身・無防備のままで投企された短歌」に、一定の意味を見い出し、普遍的な価値を認めた場合、それぞれの新聞歌壇の選者は、件の作品を「入選作」として紙面に掲載するのである。
 この場合、特に注意しなければならないのは、「入選作として新聞歌壇に掲載された作品も亦、選者に拠る寸評以外は、ほとんど裸身・無防備のままで読者の前に投企されている」という事実である。
 したがって、「〇〇歌壇の入選作」という名の短歌作品は、ただ単に新聞歌壇の中に「三十一音分のスペースを占めている」だけでは、「何らの社会的な意義を有していない」のである。
 その段階に於ける彼ら・入選作品の存在は、人間の踏み跡の無い密林の奥に咲いている幻の花と同等な存在でしかないのである。
 語句を替えて説明すれば、「読者の目に入る前の段階に於ける彼ら・入選作品の存在」は、「吉原遊郭の格子窓の奥にちょこんと座って居て、助平な男どもの訪れを今か今かとひたすらに待ち焦がれている、容貌の悪い年増花魁と同等の価値しか持たない存在」なのである。
 彼ら、新聞歌壇の入選作品が、社会的な意義を備えた作品に変化するのは、一人の読者の目に留まって、一人の読者の心に何がしかの感動を与えた瞬間である。
 一人の読者の目に留まって、一人の読者の心に感動を与えたとすれば、彼ら、入選作品は、一人分の社会的な意義を持ったという事になるのであり、二人の読者の目に留まって、二人の読者の心に感動を与えたとすれば、彼ら、入選作品は、二人分の社会的な意義を持ったという事になるのであり、彼らが、百万人の読者の目に留まって、百万人の読者の心に感動を与えたとすれば、彼ら、新聞歌壇の入選作品は、百万人分の社会的な意義を持ったのという事になるのでありましょう。
 仮に、「一首の短歌が、百万人の読者の目に留まって、百万人の読者の心に感動を与え、百万人分の社会的な意義を持った」とするならば、それは、社会的な一大事件であり、その作品の作者にとっては、「人間として生まれて、栄誉この上無し」といった事にもなりましょう。
 然るに、現実の世の中はそんなに甘くはありません。
 何故ならば、「読売新聞、一千万人の読者の中で、毎週月曜日の朝刊に掲載される読売歌壇の入選作品を読むことを人生の楽しみの一つとしている者は、数万人単位でしかないこと」は、夙に読売新聞社に拠る調査統計に拠って証明されているからである。
 長々と駄弁を弄して来ましたが、私の言いたい事の要旨は「一首の短歌が作者以外の誰かに拠って読まれ、読んだ者の心中に何がしかの印象を齎すことは、奇跡的と言ってもいい出来事である」ということである。
 而して、千葉県市原市にご在住の歌人・井原茂明さんが、過日、読売歌壇に投稿した二首の短歌は、見事に二人の選者のハートを射止めて「読売歌壇」に掲載される運びとなり、その結果として、ブログ「天童の家」の記事として公開されて、ブログの管理者「今野幸生さん」と「ころさん」と「時田幻椏さん」と四人、否、私・鳥羽省三をも加えて、少なくとも五人の読者を得たことになるのであり、先ずは以って、「目出度し、目出度し」としなければなりません。
 就きましては、ブログ「天童の家」に掲載されている記事及びコメントに拠って、上掲二首の短歌の解釈を巡って展開された問答の跡を追いながら、それに就いての私の意見なども述べさせていただきたく存じます。

 最初に転載させていただくのは、上掲二首の短歌の解釈に就いて、今野さんが井原さん宛てに私信(メール?)を発信された際の、今野さんへの井原さんの返信(メール?)である。

 井原さん曰く、「今野さん、ありがとうございます。/原油を処理精製するに当っては、バ-レル(バレル)という単位を使っていました。/今はバ-レルではなくキロ・リットルが使われていますが・・・また私が関わった有機ルミネセンス(テレビなどの発光色素)の取り扱いに当っては、ナノという単位を使っていました。/短歌はいろいろなジャンルから詠めますが、この一首は人生詠として携わった業務を具体的に単位という形で表白した点が評価されたのではないでしょうか。/単純・平明が短歌のいのちです。/(いささか自画自賛ぽくなりました・・・)/井原茂明」と。

 これに対して、今野さんは、ブログ上で件の返信を引用した上で井原さんに対する御礼の言葉と、件の返信に拠って解明された事柄に就いての感想などを、次のように記している。

 今野さん曰く、「掲歌は、どちらも読売歌壇入選歌である。/『単位』の歌は、1月13日に俵万智選で、『パトカー』は20日に小池光選の歌。/続けての入選は、なかなか難しい。なのに井原さんは毎週のように掲載されるから(凄いなぁ)と思う。/(中略)/作者の声を、このような形できけるのは、貴重なことで嬉しい。とても勉強になる。/次は、私の愚鈍さを如実に語る裏話......」と。

 今野さんがブログ上で記した記事は、まだまだ続くのであるが、それはひとまず擱いて、次に記すのは、これらの問答のある段階で、今野さん宛てに寄せられた井原さんの私信(メール?)である。

 井原さん曰く、「今野さん/『兎』は暗喩ですが、ちょっとしたあそび心です。/井原」と。

 次に引用するのは、前掲の今野さんのブログ上の記事の「次は、私の愚鈍さを如実に語る裏話......」以下に記載された記事である。

 今野さん曰く、「兎はスピ-ド違反の車/あぁ、そうなのですかぁ/そうとは知らず、そのまま兎と読んでしまいました/気が回らない兎です(笑)/それがし卯年生まれですから(爆笑)/今野拝/暗喩とは分からずに、兎そのものを待っていると読んだ。/パトカーが狙っているのは、違反車。と誰しもが思う。/ところが、作者は上手にはぐらかして『兎』だと言う。/読者の思い込みをウッチャリでかわす。/いわゆる『どんでん返し』が(手だったなぁ)と読んで、さすがと思ったのである。/と、ところが、そういう外道の手ではなく、奥ゆかしい暗喩!/それを知り、いまさらながら自分の愚鈍さを痛切に恥ずかしく思った次第である。/作者との交流があるからこそ、こういうことが明らかになる。/ボタンの掛け違いがあったり、笑いない誤解がわかったり....../でも、自分の愚かさを識ることが出来るのは、わるいことではないと心底思う。/
井原さん、ありがとうございます」と。

 上掲の四項目の記事は、いずれも、ブログ「天童の家」に記事として公開された事項を、無断転載させていただいたものでありますので、この場を借りて、無断転載に就いて、井原さん及び今野さんにお侘び申し上げます。

 話題は此処に至って、前掲の井原さんの御作中の二首目の短歌、即ち「パトカーの歌」に限定されたような感じである。
 以下の引用記事は、「パトカーの歌」の記事の解釈や創作意図を巡っての、ブログ「天童の家」に寄せられた「コメント」である。
 これらのコメントも亦、発信者の方々の許可を得ずに無断転載させていただきますので、関係者の皆様は、何卒、宜しくご許容下さい。

 ころさん曰く、「いわゆる『ねずみ取り』ですね。/ウサギと言うのはおしゃれですね。」と。

 今野さん曰く、「ころさん、コメントありがとうございます/ふ~む、いわゆる『ネズミ捕り』を肯定できません(したくない!)/もっと正々堂々と、正攻法でやるべき(笑)/結局、ウサギは、カメに負けてしまう/あの話を思い浮かべます」と。

 幻椏さん曰く、「羨ましい限りです。/井原様との御関係、羨ましい限りです。今野さんの御力ですね。/読売新聞を取っていないので、知る術を知らずにおりました。/実は、朝日歌壇も読んでいないのです。私は、基本的に自己主張の出来る短歌に向いていると思っておりますので、7・7のある短歌を読むと俳句が詠めなくなる事を思っております。/今野さんの御力と我が非力を思い知らされます。」と。

 井原さん曰く、「今野さん、こちらこそありがとうございます。/読売、朝日、毎日・・・ には毎週、歌壇・俳壇の欄がありますが、読んでいる人は一割程度かなと推測しています。/しかし、投稿という形で発表する機会が与えられていることは喜ばしいことです。/所属している結社誌の選をさせてもらっていますが、投稿はそのための勉強の場でもあります。(真剣勝負)」と。

 今野さん曰く、「時田さん・井原さん、ご両人さんは、優れた俳句・短歌 詠み人/こうした交流ができること、とても嬉しく、ありがたく思います/今後ともどうかよろしくお願いします/真剣勝負の生き方が羨ましく思います/ありがとうございます」と。

 而して、井原さんの御作・二首は、今野さん以下三氏の胸中に何がしかの印象を齎すことになり、それと同時に、この二首の歌に込められた、作者・井原さんの創作意図及び社会的な意義が明らかになろうとしているのである。
 然しながら、短歌の解釈を趣味としている私・鳥羽省三としては、井原さんの御作・二首中の「パトカーの歌」の解釈及び寓意に就いて、一言、二言、申し述べたい事がありますので、以下の通り、少しだけ恰好付けて記載させていただきます。

〇  パトカーが塀に隠れてじつと待つ対向車線に兎出ぬかと     市原市・井原茂明

 掲歌は、隣国・震旦の『韓非子』中の「守株待兔」から取材した寓喩歌であり、「ネズミ捕り」に明け暮れる無能な警察官の所業を風刺した風諭歌なのである。
 したがって、作中の「兎」とは、「道路交通法に拠って、取り締まり・検挙」の対象となる「スピード違反を犯した運転者」の暗喩である。
 然しながら、寓話とは「常に子供に説き聞かせる事を本質とする物語」であるから、最初から「兎=スピード違反を犯した運転者」などと解っていて鑑賞していたならば、面白くも可笑しくもありません。
 と言う訳で、前述の「パトカーの歌」の解釈を巡っての「事の展開」の中で、私が特に留意したいのは、ブログ中の今野さんの記事の中の「暗喩とは分からずに、兎そのものを待っていると読んだ」という件りである。
 掲歌に限らず、暗喩を用いた文芸作品の中の暗喩を用いての表現の部分は、最初から「暗喩だろう。したがって、兎とは『交通違反キップを切られる馬鹿者』の意味だろう」などと、独り決めして掛からずに、先ずは騙されて(或いは、騙されたふりして)、「怠け者の警察官の乗ったパトカーが塀の蔭に隠れて、対向車線の方から兎が出てこないか、と、先程からじっと待ち焦がれているのである」と、解釈することが必要なのであり、その次の段階として、作中の「兎」が、何かの「暗喩」であることに気付き(或いは、気付いたふりして)、暗喩の対象が「交通違反キップを切られる横着な運転者」である、と認識することが大切なのである。
 作中の「兎」を、本物の「兎」として捉える段階から、「交通違反キップを切られる横着な運転者」として捉えるまでの時間の長短は、読む者に拠って異なり、ある者にとっては、ほんの一瞬、ある者にとっては、一時間以上ということも有り得ましょう。
 だが、この場合の時間の長短は、敢えて問題にするには当たりません。
 とにもかくにも、短歌作品を含めた寓話の類の解釈は、かくの如き正しい手順に従って解釈が為されなければならないのである。
 したがって、ブログ「天童の家」の記事は「私の愚鈍さを如実に語る裏話」では無く、「今野さんの短歌解釈の正当性を如実に証明する裏話」に他ならないのである。
 もう一点、付け加えさせていただきますと、作者の井原さんが遭遇された現実の出来事とは別に、掲歌の取材源の一つとなった「『韓非子』中の“守株待兔”」とは、我が国に輸入されて「北原白秋作詞・山田耕筰作曲」の小学唱歌となった、例の『待ちぼうけ』の話である。
 この点に就いては、今野さんたちの話題にも出ませんでしたし、作者の井原さんも明らかにしませんでしたが、ご自覚なさっていると否とに関わらず、作者・井原さんの脳裏には「待ちぼうけ」の寓話が在り、掲歌は、「物陰に隠れていて、退屈任せに、かつ点数稼ぎにネズミ捕りを事とする、千葉県警の無能な警察官の所業を風刺する歌」としての役割も備えているのである。
 終りに、小学唱歌『待ちぼうけ』の歌詞を、以下の通り記載させていただきますから、井原さんの御作の鑑賞に際しては、拙記事の読者の方々は、何卒、件の小学唱歌に託された寓意なども考えてみて下さい。

(1)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 ある日せっせと、野良稼ぎ
 そこに兔がとんで出て
 ころりころげた 木のねっこ
(2)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 しめた。これから寝て待とうか
 待てば獲物が驅けてくる
 兔ぶつかれ、木のねっこ
(3)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 昨日鍬取り、畑仕事
 今日は頬づゑ、日向ぼこ
 うまい切り株、木のねっこ
(4)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 今日は今日はで待ちぼうけ
 明日は明日はで森のそと
 兔待ち待ち、木のねっこ
(5)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 もとは涼しい黍畑
 いまは荒野の箒草
 寒い北風木のねっこ

 追伸
 是までに私は、掲歌の作者・井原茂明さん及び、ブログ「天童の家」の管理者・今野幸生さんに追従するが如き言葉のみを書き連ねて来ましたが、以下の文章に於いて、「パトカーの歌」の表現上の難点を、一点のみ指摘させていただきます。
 それと謂うのは、掲歌の下の句が「対向車線に兎出ぬかと」となっていることである。
 作中の「兎」が、「交通違反キップを切るべき横着な運転者」であるとするならば、そのような運転者は「対向車線」にのみ現れるのでありましょうか?
 或いは、「パトカー」が「隠れて」いる側の車線に現れても、その場合は捕まえたり、交通違反キップを切ったりすることが無いのでありましょうか?
 その点に就いては、全く納得が行きません。
 思うに、作者の井原さんが掲歌の下の句に「対向車線に」という語句を置いたのは、他に適当な語句が思い付かないままに置いた、急場凌ぎの措置なのかも知れず、本作は、作者の井原さんとしても、推敲不足の作品、未完成の作品なのかも知れません。
 〔返〕  パトカーが藪に隠れて待つてゐる速歩自慢の兎来ぬかと  鳥羽省三  

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