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湯 治



百姓の家に生まれた。実家は、貧しいなりに平均的な暮らしをしていたような気がする。
終戦間もない昭和20年代~30年代は、農地開放された百姓たちは自分たちの力だけで、土地改良をやってた。

冬になると、午前3時に起き出して、自分家で作った肥料を橇(ソリ)に満載し、前日作っておいた雪道を
まだ吐く息の白さもはっきり見えないほの明るい雪道、ソリを引き何往復もしたのを脈絡もなく思い出す。

夏になると、自転車の荷台に青ペンキで塗った箱をつけ、鐘を鳴らしながらアイスキャンディ売りがやって来るのを楽しみに待った。
またそれとは別に、リヤカーに藁むしろに包んだ天然氷を積んで、注文の大きさにノコギリで切ってもらうのがまだ冷蔵庫のなかった時代の夏の風物詩だった。

年間で最繁忙の稲の収穫が終わると、親たちは出来上がったばかりの新米をリヤカーに積んで、それを引いて
温泉場に向かった。
米や野菜は、売るためではなく、自分たちが湯治で食する食材である。湯治場では自炊で、地元の人が山で採ったキノコなども買い、何日間も湯に浸りながら逗留した。
湯治宿屋は、瀬見や赤倉温泉だったり、作並温泉へも行った。特に作並で印象に残っているのは、進駐軍が飲み干す瓶入りのビールで、飲み終わった空き瓶を何本もポイ捨てするその動作が、いかにもヤンキーらしいと目を瞠ったものだ。

時代は移り、平成に。
母たちは、老いた「女子会」の行事として、年に幾度も湯治に行く。その女子会のアッシーになったりした。
東根温泉へは何度もハイヤー代わりになった。

東根温泉だけでなく、あの肘折温泉も湯治場になってた。
さすがに肘折へ行くのは断る。というより温泉宿の送迎車が利用できた。肘折温泉は、地区の「老人会」でもよく利用してるようだ。

母(義母)は、90歳を超え、湯治へ行くこともなくなった。
代わって、自分たち(夫婦)が行きたいと思う。(笑)
だが、老いた母を残しての湯治は、叶わない。このことを理不尽だと思うこともチラリとある。(苦笑)
へへ できないことは、できない。せめてもの代償行為として仙山線の電車を撮ることで我慢している。

というおかしな屁理屈で、画像を並べる。

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  1. 2017/01/29(日) 05:20:53|
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  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2

コメント

雪国

”せめてもの代償行為として仙山線”なんですか~
お母さま大事のこんのさん!
お母さまも感謝なさっていること間違いなしかと!

雪景色の中の仙山線!
雪国だなあ~って実感させられます。
  1. 2017/01/29(日) 20:16:14 |
  2. URL |
  3. 阿蘇望亭 #z7TqjuIk
  4. [ 編集]

しばり

母は92歳、食欲はあるのですが、身体の衰えはあきらかです
母をおいて出かけることはできなくなりました
「しばり」を感じます(苦笑)が、しかたないです

電車でも眺めながら、旅への誘いに浸ってます
冬には温泉が良いのですがねぇ(笑)
  1. 2017/01/30(月) 08:17:51 |
  2. URL |
  3. こんの #-
  4. [ 編集]

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