またはコミュニケーションを願って
すでに書いたことがあるかも知れないが、「天童の家」は自分にとっていろんな意味がある。
サイトは3つ目の「天童の家」だが、これをはじめたのが 1999年6月22日(火曜)である。すでに9年経つから長寿サイトと言えるだろう。
この間、実に多くの方からアクセスがあった。アクセス・カウンターは、はじめから設置しなかったから、正確なアクセス数はわからない。
2つ目のサイトにはアクセス・カウンターをつけた。インターネットがこんなに普及していなかった当時(1996年)、毎日更新するそのサイトは人気があって、県内のアクセス・ランキングのトップを何週間も走り続けたのだった。
でも、アクセス数ほど曖昧なものはない。テレビ視聴率と似たような、意味的にはそれ以上に漠然としたものでありながら、サイト主宰者は数字に囚われてしまいかねないという代物(化けもの)なのだ。
だから「天童の家」にはアクセス・カウンターは、つけていない。アクセスがいくらあろうがなかろうが、あまり意味がない。見て欲しい人が一人でもいれば、それでいい。その人に毎日届けられればいい。
「天童の家」を毎日のように更新し続けている。こうした営為にはいくつもの意味がある。
第一に、自分が感動したことを発信することにより、誰か(アクセスしてくれた方)に感動を共有してもらいたい、と思う。
うん、感動は生きている証である。生きているからこそ感動する。この世に生を受けている仲間と感動を共有できることは、とても嬉しい。
第二に、家にじーっとしていては感動が得られない。したがって外出する。散歩中に感動的場面に出会う。
歩くことが身体に良い。もちろん感動はこころが活き活き動くことであるから、精神衛生にもいいというわけである。
第三に、「天童の家」を毎日更新するにはそれだけの話題がいる。話題探しもする。人と話しをし、新聞も読む。また季節の風物詩をみつけ写真に撮る。
そういう活動(営為)が、「毎日が日曜」の身には、大きな動機付けというか、モチベーションになっている。
話しや読書は、家でもできる。しかし、季節にマッチする風景は歩きまわらなければ出合わない。自分の場合は、山歩きや渓流を遡行することなので、それが大きな運動量になっている。
運動のために山登りや渓流歩きをするという気分もある。
第四に、「天童の家」更新は、自分にとってルチンワークになっている。
「感動の共有」が基本であるけれど、しかし、感動に毎日出合うわけではない。それは承知している。だからといってぼーっとしていては何も生まれない。
自分に課しているのが、「天童の家」の更新である。そうした課題(義務に近い)を遂行するためにいろいろと考え、行動する。
今日の見出しが「一石二鳥」。しかし、考えてみると、一石四鳥であり、五鳥になっているのかも知れないなぁ
アクセス数には無頓着のように書いたが、けっしてそうではない。短かなコメントでもあれば正直嬉しいし、大きな励みにもなる。
うう、そのようなコメント(コミュニケーション)を心待ちにしている自分もいる。



小 雨 外出できないと、よけいなことをいろいろ思う
- 2008/11/07(金) 10:14:30|
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コメント:2
こんのさん、そんなに長い間やってらしたんですね!それはすごいことですね。
私はまだモザイクとかいうブラウザだったころからインターネットはやり始めましたが、自分から発信し始めたのは2003年からなので、こんのさんに比べるとまだまだひよっこですね。
でも私もほぼ毎日更新していますから、こんのさんのおっしゃっていることはすべてよくわかります。同じ気持ちです。
自分でもやっている人はコメントを書き込むことにも慣れているんですが、読むの専門の人は書き込まずにただ読むだけのことが多いようですねぇ。もっと気楽に書きこんでくれるとうれしいものなんですけどね。
- 2008/11/07(金) 19:38:12 |
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- あくあ #-
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同感!! 同感です アクセスしてくれる方がけっこう多いのですが... コメント、煩わしいのでしょうかねぇ
一言でいいのですが...
- 2008/11/08(土) 07:06:19 |
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- こんの #-
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