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日常にある感動


真ん中の孫、克行君の卒業式が3月1日だった。
そして2日から会社へ行き、研修をうけている。

12年間の学校生活をすごした。多くの感動を得たことだろう。小学校への入学式、運動会、遠足、給食、友だちとの喧嘩でさえ、ある意味「感動」であった。
そうした数々の感動を体験しながら小学校から中学へすすむ。自我に芽生え、思春期を迎えれば、より多くの感動的な日々が続く。
高校受験、入学、それまでの学校生活とはまたちがう数多くの感動に出合う。中学ではサッカー部だったが、高校では演劇部で楽しんだ。

新しい出合いには、感動がともなった。
だが、感動は繰り返され、やがてそれが日常となってくる。
日常が平穏につづいていると、そこにある感動のこころを見失ってしまう。このことに気づかないでいる場合が多いのではないか。

健康のそれと似ている。
生まれる前は、五体満足であればいい、と願う。その通りに生まれ、さらに喜びを味わう。
元気にすくすくと育って欲しいと思う。「這えば立て、立てば歩めの親心」の過程に感動が覚える。

ずーっと元気で、健康でいられれば良いのだが、時には風邪をひき、病気にもなることがある。転んで怪我をすることもある。
病気や怪我をした時、健康のありがたさを知る。

3.11 が、さらにそのことの重大な意味を知らせてくれた。
穏やかな日常の中にこそ、たいせつなことがいっぱい詰まっているのだと教えてくれた。
失った日常、取り返しのきかない日常、その中にたくさんの喜びがあったのである。
日常生活のなんとたいせつなことか! 失って、そのことの大きさを感じる。

どなた言われたことか知らないが、驢人さんの驢馬の耳(ブログコメント)に次のようなフレーズがあった。

 「今も日常を送っている、今日という日は、沢山の人々の、失われた明日なのだ。」

若いころは、平凡な日常より、多少辛くても変化のある日々を望んだ。穏やか暮らしより、波瀾万丈的な道を歩きたいと思った。
しかし、上にも書いたが、平穏な日常の中に、たくさんの感動が詰まっていることを忘れてはならない。
そのことがようやく分かってきた。
感動的なことが毎日なくてもいい。なくて当然である。でも、この世に、存在してること自体が感動と言えるような気がする。
気がする、というより、そう感じるのである。そう思えるのである。おかしいだろうか......?


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  1. 2015/03/14(土) 00:15:00|
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  4. コメント:2

コメント

明日

少し遠い予定を手帳に書き込みながら
私はどんなふうにこの日を迎えているのだろうかと
ふと、考えることがあります。

失われるかもしれない明日のために
今を大事に味わいたいと思います。
  1. 2015/03/16(月) 03:33:17 |
  2. URL |
  3. 25okurokku #AVgFLk6E
  4. [ 編集]

今を大事に

25okurokkuさん
そうですね
明日が、必ずあるとは限らない
刹那的にというわけだはなくて
現在をだいじにいきたい
そう思いますです
コメントありがとうございます


  1. 2015/03/16(月) 07:25:56 |
  2. URL |
  3. こんの #-
  4. [ 編集]

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