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凍み大根 

2月3日が節分で、4日は立春。
カレンダーのそれとはいえ、「立春」には春の響きがあり、光にも春の色がほのみえる。
迎える春が待ち遠しい。

だが、北国の春は、まだまだずーっと向こうだなぁ
2月は、雪国にとって いちばん寒さの厳しい月である。

この冷気を利用する食材作りがある。はい、凍み大根つくりである。
小屋に保存してる大根を茹で、冷水に浸し、それを軒下に吊り下げる。

大根は、夜間の冷気で凍みる。
昼には、陽光と寒風で水分が蒸発する。
それを幾日も繰り返すことで、大根のもつ旨味や栄養はじっくりと凝縮され、甘味を増しながら徐々に乾燥し、美味しい凍み大根ができあがる。

寒さは、腰を重くさせるけれど、一念奮起、寒さを利用することで、楽しみが増える。
起床時にぐ~んと感じる冷えも、吊り下げた凍み大根を思い浮かべると、元気がでる。
そのようにしながら、やがてくる春を待つ。
凍み大根作りには、凍りつく冷気が必須なのだ。

身欠きニシンと一緒に煮た凍み大根の旨さを思い浮かべる。うふふ、楽しさで、おもわず頬が緩んでくる。
ジャガイモが入れば、もっと美味しくなるなぁ (笑)

厳しい寒冷を利用した食材作りには......
寒晒し蕎麦もある。蕎麦の実(種)を真冬の渓流に漬ける(浸す)と、よりソバの旨味が増すという。

凍み大根に似たのに、凍み豆腐があるなぁ そう、あの高野豆腐といわれるスグレモノ。
そもそもは、寒冷地の東北で作られてたという。今では家庭で作られることは殆どない。

新潟では、雪面に晒した唐辛子を味噌と練り合わせたカンズリが薬味として重宝される。

雪や寒冷を利用した食材は、当然ながら北国で作られる。辛く、厳しい冬を、少しでも楽しく暮らそうと工夫した人々の文化が、今も脈々と引き継がれてるのである。ありがたいことだと思う。

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  1. 2016/01/31(日) 14:25:36|
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意識すると


今日で1月が終わる。
ふ~む なんとなく忙しない日々を暮らしたような気がする。
雪のない正月をすごし、正月気分が盛り上がらなかった気がしないでもない。

でも、8日は妻の誕生記念日で、その日は山形市民会館で「新春初笑」ものまねショーを楽しんだ。
13日の散歩では、申年にあやかって猿の群れに出合った。
17日には、初釜の初体験をすることができた。

そして18日からの記録的な寒波の襲来。それまでの雪が降らない冬は、たちまち逆転した。

24日には、大関琴奨菊が初優勝し、25日・26日とショッピングセンター「おおばん」は長蛇の列になった。
大関が所属する佐渡ヶ嶽部屋は、元関脇琴ノ若が親方。彼は山形県尾花沢市出身である。「おおばん」は、これまで琴ノ若、そして佐渡ヶ嶽部屋を応援し、さまざまなイベントをやってきた。祝賀セールで晩白柚を買う。

テニスの錦織戦、またサッカーのリオデジャネイロオリンピック出場などで賑やかだった。

28日、甘利経済再生相が辞任。

ふり返れば、ほんとに忙しない月だった。いろいろなできごとがあった。
ふふ、なにも自分が当事者としてやったことではないけれど、身の回りで起きる出来事が、毎日の暮らし、気分に影響する。
身近に感じたのは、やはり雪掻きの難儀さと、散歩道の確保だったかなぁ

積雪すれば、散歩道は塞がれる。敢えて、積雪をものともせずに歩けば、歩けないことではない。
しかし、大方の人は、そのような無茶をしない。まして76にもなる身には論外であり、雪中散歩はやらない。
尋常な散歩道がなかなかないのが困る。

「部屋で、踏み台をやったら...」妻が言う。踏み台運動は散歩代わりになる。うんと頷き、妻の提案に従う。
歩数計をポケットに入れ、踏み台に上り降りする。目標は4000歩。
散歩とちがって、一定の運動を繰り返し、何度も繰り返し行なう。

息がきれ、動きを止め、歩数計を見る。
250とか、170の数字がでる。(えっ!? もっと歩いた気がするけどなぁ)
歩数計は、ウソをつかない。(笑)

道を歩けば250歩は、あっという間だ。なのに、踏み台運動では170歩が、いかにも動いたように思われる。
目標の4000歩は、意識してやると、なんとも遠い道程だ。歩けば、どうってない距離なのに......

パソコンを起動する。ネットに繋がるまでの時間がその時々によって長く感じたり、短かったりする。
なにか他のことやっていると、起動し、なにかを行えるまでには直ぐなる。
なのに、パソコンの前で、立ち上がるのを待っていると、その時間がなかなか長くかかる。

なにかを意識して待つ。あるいはやる場合は、時の流れるのがけっこう長く感じる。
しかし、なにか他のことをやっていると、時の経つのが、とても短く思える。
意識すると、しないでは、時間の流れが変わってくるわけではないのだが、感じる感覚が変わってくる。
それが、時間の不思議さである。

2016年も1月を暮らした。
いい1月だったなぁと思う。

2月3日が節分、4日が立春である。
気分的には、迎春。
だが、寒さがいちばん厳しいのが2月だ。

でも、光が冬のそれから春の色になってくる。
うん、春の気配がだんだんに濃くなってくる。

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  1. 2016/01/31(日) 05:42:33|
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実在感ない

八雲湧いて

下のフレーズは、27日の散歩に際して書いた。

  雨が降る雪景色など見たくもない。春先の腐れ雪と同じで、風景がみんなだらーっと崩れてる。
  いつもの散歩と同じにカメラは携行したが、1枚も撮らないで散歩を終わる。こういう日もある。

28日の散歩時も、27日と似たような雪景色。
景色がどうであろうと、散歩が日課だから、写真は諦めて出かける。もちろんカメラは携行する。
きれいな景色時と、そうでない時の散歩では、気分におおきな差がでるのはしかたない。いつもいい天気ではないのはやむを得ない。

余計なことを考えずに、とにかく歩くことが先だ。さいわい道路に雪はなく、足取りが軽い。時折自動車が通るが、スーパー農道は広いし、車も多くない。
目にするのは、雪景色だが、雨をたっぷり吸い込んだ雪で、新雪の美しさがない。木の枝には着雪もなく、薄汚れた裸木が黒々とならぶ。
雲がながれ、時折雲から太陽が出る。寒くない。むしろあたたかい。汗ばむのを覚える。

里山の積雪が融けて蒸発し、八雲が生まれてる。
ふ~む、これも一つの風景だなぁ とカメラを向ける。
27日は、1枚もシャッターを切らなかったが、今日はダメモトと思いながらもカメラをつかう。

少なくとも <風景がみんなだらーっと崩れてる>状態ではない。
イメージには遠いけれど、八雲が生まれるのを目にできる。良しとしなければなるまい。
うん、贅沢いえばきりがない。少しでもなにかを得ることに出合えば、それこそありがたいと思う。
*
28日の空

以下は、ある方の1月28日のブログから拝借した。

今日は、肌寒い曇り空に、時折、昨日の天気を引き継いだような小雨が交じる。
その雨も、お昼前には上がったので、午後から ソニック号 で出かけた。
(略)
すでに路肩の雪は融けた。だが、お昼までぐずついていた雨と、日照がないために、今日は路面状況が悪い。
それにしても、不思議な天気だ。 全体的にモヤがかかって、コントラストがなくて、遠近感がない。
それに、風もなく、寒さも感じないというのが、なんか、現実味に欠ける。
どこまで行っても、どっちを向いても、モノトーンで同じような風景に見える。


上の、他人さまの文を借りたのは、<すでに路肩の雪......>以下の4行が、28日の空もようを的確に表現しておられる。うう~ 自分には書けないからである。(苦笑)

はい、散歩では次のような情景に出合ったのである。
ふむ、現実味に欠ける、現実の風景......

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  1. 2016/01/30(土) 05:51:02|
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ピラカンサ

ピラカンサ(ピラカンサス)

下は、http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/31402694.htmlからの転載(抄)である。

一気に赤く色づいているが、鳥たちは見向きもしない。
何しろ、この実には毒がある。
青酸系の毒(青酸配糖体)を含んでいるらしい。
鳥は、食べ物がなくなって、この実を食べるとしても、少しずつ少しずつだ。
いっぺんに食べると中毒してしまうからだ。
ピラカンサ側からすると、少しずつ鳥に食べてもらうことで、種子をあちこちに分散して運んでもらいたいわけだ。
(逆に、美味しい実は、一斉に赤くならずに、時間差をもって熟していくようだ。)

(略)

ふたたび不安になったが、種を取り除いて口に入れてみた。

…まずくない。
苦くも渋くもない。
食べ頃を過ぎたリンゴのようなスカスカな感じだが、ほのかに甘い。

そんなこと言って、しばらくしてから「ガツン!」と不味さがおそってくるのだろう、と覚悟していた。
だが、一向にそんなことはない。

時間が経つにつれて、毒性が薄くなる!
毒性が抜けたのだ!

上のブログの記事は日付が12月2日になっている。
その頃はまだ毒が強烈。
だが、2月下旬ともなると毒はあらかた消えてしまうのだ。
それを鳥たちは知っていて、ようやく今頃から食べ始めたということなのだ。

ああ、やっぱり自分で味わってみないといけないなぁと実感した。
食後、舌にわずかなシビれを感じたが、15分もすれば消えてしまった。

というわけで、2月下旬のピラカンサは食べられます。


ここからは自前の文である。

27日のこと

雨降りだ。
降り積もった雪が融け、雨垂れになってる。
いや、雨垂れというより、雪融けと雨が一緒になり、太い糸のような「滝」になって地上に落下してる。
間あいをおき、何本もの細い滝が出現してる。注意して見なければ気づかないほどの滝である。

春先に、このようなの見ることがあるけれど、冬のど真ん中に目にするのは、はじめてである。
撮ろうかと思ったが、たいした被写体でもないと止めた。
小雨なので、傘をさして散歩に出かける。

雨が降る雪景色など見たくもない。春先の腐れ雪と同じで、風景がみんなだらーっと崩れてる。
いつもの散歩と同じにカメラは携行したが、1枚も撮らないで散歩を終わる。こういう日もある。

「パパ、あれ撮った?」妻が問う。また「あれ」だが(笑)、あれとは、庭のピラカンサの赤い実が、雪の上に落ちてきれいだという。
一瞬(えへ?)と思う。
ピラカンサの実はどうして落ちたのか? 鳥たちは、この実を食べないし、誰が、何が実を落としたのかな?

妻が、きれいだ。撮ったかと問うのは、「きれいだから、撮りなさい」と同意だから(笑)、カメラを持って庭に行く。
雪の上に、赤い実と、緑の葉が散らばってる。よく眺めれば、鳥たちの宴の後だと分かる。
(えっ?! この実を食べたのぉ)
というわけで、証拠写真を撮り、その後に「検索」にとりかかる。
(なるほど、熟しきれば、この実も食べられるのだなぁ)と納得。

上の他人さまの文は、そういうことで掲げた次第である。
次に、鳥たちの「宴のあと」を並べる。

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  1. 2016/01/29(金) 05:19:46|
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今を生きる

こんにち只今

先日、ある方(Rさん)のブログを読んでから、こころに浮ぶ思いがある。
Rさんのご主人のお母さまが百歳になって、そのお母さまの最近のようすが、リアルに述べられている。
次に、その一部分を転載させていただく。

 過去は、それほど大切ではない様だ。
 昨日に興味はない、今日と明日、だけがあるようだ。
 今日、といっても、半日前に興味はない。
 今、と、明日、に意味があるような気がする。

100年間生きてこられた方が、関心をもつのは、「只今と明日」である、と
半日前(過去)にも興味がない、と書かれる。

それを読み、(わかるなぁ)とガッテンのいく気持ちが大きくわいた。
最近の自分のありようが重なるからである。
過去に意味がないとは言わない。アイデンティティーは過去からの延長上に成り立ってる。

自分の過去に対する自負心もある。
だが、思い出すことはできても、過去へは戻れない。
あの頃の自分に自負心があっても、それが現在の自分へつながっていなければ、単なる思い出でしかない。
現役として、現在も、過去と同様に活動・存在し続けられれば話は別であるが......

若さや、実績や、栄光が、現在只今まで継続していない過去は、興味をもっても意味がない。
むしろ、現在の衰退した自分の姿を浮かび上がらせるだけである。

こんにち、只今、こうして存在している(生きている)、ここで感じることをだいじにしたい。
「いまがいちばん幸せ」と思える、このことをたいせつにしたい。と切実に思う。

百歳までいけるとは思えない。
そういうことではない。いま、ここにいる。いて感じるこの存在感をじっくりと味わっていきたい。
深刻にそう思っているのではないが、時折そう思うので、書いておこうと思った次第である。

百歳になられたお母さまを見守っておられるRさんの優しいこころと冷静な目が、的確なエッセイになって読めるのが嬉しい。
(そうよなぁ そうなんだ!)と頷きながら、自分の姿と重ね合わせたりしてるのである。

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  1. 2016/01/28(木) 05:51:52|
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縄張りが......

ヒヨドリ

裏庭にあるウメモドキには、赤い実がたくさんなる。
ウメモドキの隣には太い柿の木があり、たくさんの実をならせる。

柿は、収穫され、干し柿などになる。
木になったのを全部もぎとることはなく、かなりの実が遅くまで枝に残る。
熟した実は、カラスやスズメ、ヒヨドリ等の鳥たちの恰好の餌になる。

柿の実があるうちは、隣のウメモドキの赤い実は、鳥たちに無視されたままである。
何度目かの雪が降り、柿の実がなくなると、鳥たちにはウメモドキの赤い実がごちそうとなる。
カラスは、ウメモドキを食べない。

ヒヨドリが、ウメモドキをまるで自分の占有物の如く扱う。
ヒヨドリより一回り小柄な鳥たちは、柿も食べたが、ウメモドキの実も餌とする。
小鳥たちが、ウメモドキの木にやってくると、どこにいたのかヒヨドリが小鳥たちを追い払う。

「みんなで仲良く食べればいいのに。ヒヨはデカイ身体で小さいのを追い回してる」妻の不満そうな顔。
「自分のウメモドキみたいにしてるヒヨ。あれで警戒心が強いんだよなぁ カメラを向けると直ぐ逃げる」
「カラスは、(小さい鳥を)追い払うようなことしなかった。でもヒヨはどうして追う!?」妻が問う。
「テリトリーが強いのか? ここオレのものだ、来るんじゃない! ってね。そういうのって動物にはある。
 でも、鳥たちにはちょっと見ないなぁ ヒヨドリは特別なのかなぁ......」曖昧な答えしかできない。

ヒヨドリ同士でさえ、なぜか諍いをやってる。ヒヨドリは、気性の荒い鳥なのだろうか?
他の鳥たちを追い払う行動が気になるが、ヒヨドリだって見ればなかなか可愛いのだがなぁ

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  1. 2016/01/27(水) 05:12:33|
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鳥を撮って


雪が積る頃になると、小鳥たちの姿がよく目につく。
葉が落ちつくし、隠れるものがなく、見通しがよくなるためと、もう一つは、渡り鳥(冬鳥)が加わることがあるかも知れない。
それまでも鳴き声や飛ぶ姿を見ていても、カメラを向けたり、立ち止まると、直ぐに察知し、警戒され、なかなか撮ることが難しかった。

ところが、冬は、繁茂し、隠れ場になっていたのが裸木になってしまう。
さらに言えば、なぜなのかは分からないが、冬季は、鳥たちは、群れて暮らすようになるみたいだ。
「赤信号みんなで渡ればこわくない」みたいなことが鳥たちの世界にもあるのか(笑)、群れてる時は、警戒心もうすれるようで、立ち止まりカメラを向けても慌てて逃げるようすがない。

もちろん、警戒心がなくなるわけではなく、思うような撮り方ができるとは言えないが、どちらかと言えば、冬場の方が撮りやすい。
というわけで、被写体が少なくなってることもあって、鳥たちへカメラを向けることが多くなる。
ただ、そこに可愛げな鳥がいるというだけで、その名前がわからない。とにかく撮ってしまおうとシャッターをきる。

花ならば、逃げたりしないから、じっくり撮れる。だが、鳥たちは動きが激しく、望むアングルさえままならない。
それだから、逆に難しい被写体に挑む面白さを覚える。っふふ、ダメモトでトライする。
素人カメラマンの趣味で撮る写真だから、失敗したってなんのダメージも受けない。イメージに少しでも近い画像をゲットできたときの嬉しさが忘れられない。

そうは言っても、ダメの場合が多いから、楽しいだけではない。
ただ、花や風景のそれとちがい、被写体が動物のときは、なんとなくその動物と気持が交流してるような気分になることがある。
「おい、よく撮れたぞぉ ネット仲間にも見てもらうからな」みたいなことを語りかけているのである。(笑)
鳥たちに、言葉や気持ちが通じることはない。それは承知しながら、それでも一瞬、通じたような思いになったりするから可笑しい。

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  1. 2016/01/26(火) 05:46:00|
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雪降りの日


雪国に暮らす老齢者は、冬になって雪が降れば、家にいて静かにすごせばいいと思ってる。
しかし、実際にそうしてみると、なんとももの足りない。手持ち無沙汰というか、落着かない。
せめて散歩がしたい。でも、雪降りで、寒ければ、どうしても腰が重くなってしまう。(苦笑)

以前だったら、本読みで時間が過ぎるを忘れたのだが、今は、その読書にも熱中しきれない。
妻が、新聞やテレビをみているのを時々横目で覗いながら、なんとはなしにパソコン前にいる。
2・3日剃り残した顎下辺りの伸びた数本の髭を手でむしり取ろうとするが、なかなか抜けない。

「ママ、これを切ってくれ!」鋏と喉を妻の膝前に投げ出す。(笑)
「これ(鋏)でなく、あれを持ってくるからね」妻が、あれを取りに行く。
あれとは、カミソリのこと。っふふ、「あれ」だの「これ」だのと代名詞の会話になってしまう。
その「あれ」で、横になってる男の伸びた数本の髭を剃る妻。なんとも間抜けた構図で、他人さまには見せられない姿だ。

テレビは、琴奨菊の優勝にまつわるエピソードの数々が放映されてる。
「パパ、ここ見て」妻が指差す記事を読む。

 琴奨菊が花道を引き揚げるとき、初土俵が同じの豊ノ島が祝福した。
 「ずっと一緒に戦ってきて......。一番優勝がうれしくて、一番優勝されて悔しい相手です」とさわやかな
 笑顔を見せた。

「ね、豊ノ島の言葉、ほんとだと思うな パパはどう思う?」
「あぁ、二人は小学校から知り合ってた仲良しというから、正直な気持ちだろうなぁ」

31歳の初優勝。そして今月末に結婚式を挙げるという。
「いい話だ。人生の華、の時だね」

テレビが、南国に降る115年ぶりの雪降りを報じてる。
車の渋滞や事故も多発してるという。
我が山形県大蔵村肘折では、2m38cmの積雪になった。

部屋の温かさで、ガラス窓が曇る。
ガラス窓の向こうで、雪がちらちらと降り続いてるのが見える。
やはり、老齢者は、家で静かにしているのがベターなのかなぁ



  1. 2016/01/25(月) 11:55:15|
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だんごの木


以下は、10日のブログへのコメントとレスポンスである。

 初 市

 初市いいですね。
 「団子木」って、何だろう?
 と検索してみました。
 美しい、可愛い、 きれいですね。

 こちらでは、十日えびす(初恵比寿)で賑わっています。
 キラキラの大判小判や、鯛、宝船の飾り物を笹にぶら下げた福笹が売られています。
 クリスマスツリーとか、餅花、団子木、福笹、七夕…
 人は、木に何かぶら下げるのが、好きなんですね~
                       2016/01/11(月)  驢 人

 団子の木

 団子は、団子の木(ミズキ)にさします
 ミズキは、切られた所から赤い樹液を流す
 うぅ、痛くて泣いているように見え、切なかった
 子どもの時そんなふうに思ったのがなんだか懐かしい

 臼作りの現場が懐かしくなり
 午前中、切畑(高瀬)に行きました
 っふふ まるで子どものような自分の行動に可笑しくなります
                       2016/01/11(月)  こんの
*
24日、車屋へ行ったら、「団子木」が飾られてた。
色とりどりの団子が、ミズキにさされ、ふなせんべいが吊り下げられてきれいだった。

「団子木」は、小正月(1月15日)の行事で「豊作祈願」を形にしたと言われる。
団子木に団子を挿して座敷に飾り、秋の豊作並びに養蚕(繭)の豊作を祈願した。
団子木の根元には昆布(よろこんぶ)を巻き、それに「金」と書いた金着餅(財布餅)を下げる。
また団子木のところどころに船煎餅・昔の銭・ふうせん・折鶴等を飾るなど見た目も美しい飾り。

団子は、米粉で作り、飾り終えた団子は、固くなるので、後日に金槌で砕いて、それをバクダンにして食べた。バクダンが弾けるのが豪快で、その瞬間を固唾を呑んで見守るのが子供の頃の大きな楽しみだった。
その団子も、現在はふなせんべいに変わってしまったようで寂しい。

バクダン菓子の甘味料は、サッカリン。わずかのサッカリンの甘味が、当時はなによりもうまく感じたものである。
サッカリンとかズルチンが砂糖の代替甘味料だった。

 ↓ っふふ、撮ってきた団子木である。

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  1. 2016/01/25(月) 10:04:19|
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散歩道探し


積雪があると、散歩道の確保がたいへんだ。
ずーっと歩いてきた立谷川沿いのサイクリング・ロードは、雪で塞がってしまった。
歩行者・自転車専用路だから、車に気遣いせず安心して歩けたのに......

散歩道は、他にもたくさんあるのだが、いずれも積雪で歩けない。
除雪した道路でなければ、歩けないから、散歩道確保は難儀になる。
生活道路や産業道路は除雪なるけれど、通行車も多く、また道幅も狭くなるため、散歩にはリスクが伴う。

昨年の冬は、運動公園のアリーナを繋ぐ通路を歩いた。運動公園までは車で行く。
もっと近くに歩ける所はないかなぁと...... 候補にあがったのが、歩いても行ける「大森トンネル」。
トンネルの中は、道路が通ってる(笑)。道路脇にひろーい歩道スペースがある。道路との境には柵もあって
安全的には申し分ない。

トンネルの中は、雪がない(笑)。歩くには、なんの支障もない。もちろん、照明も立派なのが並んでる。
ただし、車がトンネルに入る度にかなり高い騒音というか、轟音が響きわたる。
あの音を快いと感じる人は、少ないはずだ。(苦笑)難聴者である自分でさえ、(この音さえなければなぁ)と思う。

でも、その音さえ気にしなければ、トンネル内は誰に遠慮することなく歩ける。
たとえ、風が吹こうが、どのような激しい雨でも、傘なしで歩ける。(笑)
景色は、トンネルの両側に見られる。
ふ~む、散歩道になる。へへ 選択肢の一つ。 と、思う。

2月になれば、積もった雪が固くなり、雪面を歩けるようになる。いわゆる「堅雪」、または「高雪」。
そうなれば、どこでも散歩道になる。積雪面がすべて歩ける。
雪は、散歩道を塞ぐこともあり、また逆にどこでも歩けるようにする特異な役者だ。

雪を恨むだけでなく、雪と仲良くなって楽しむのもいいものだ。
そう思うようにしている次第である。

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*

話が変わる。

昨年の春から、ずーっといつもの年の気候のありようと大きく違った。
春が早くきて暑い日が続いた。
夏は猛暑と異常な豪雨があった。
お盆を境に、猛暑はウソだったようにおさまり、残暑もなく秋になった。
冬の季節になっても温かく、雪が降らない。雪のない正月で、このまま春になるような気さえした。

だが、18日から冬らしい降雪があり、続いて寒波が押し寄せ、ふ~む 日本列島は次のようなことになった。
備忘録として、ここに転載しておく。


 西日本積雪

 長崎8センチ、鹿児島4センチ 西日本大荒れ  毎日新聞 2016年1月24日 09時25分

 日本列島は24日、上空に今冬一番の強い寒気が入り、西日本(近畿、中四国、九州)を中心に大雪になった。 長崎市や鹿児島市など九州の平野部でも積雪を観測した。

 冬型の気圧配置は25日にかけて続き、気象庁は西日本や北陸を中心に大荒れの天候になるとして、交通の乱れや雪崩などに警戒を呼び掛けている。

 気象庁によると、24日朝、長崎市では8センチ、鹿児島市4センチ、佐賀市3センチの積雪となった。
 午前7時までの24時間に広島県北広島町で74センチ、石川県珠洲市35センチなど中国、北陸も大雪になった。

 沖縄も冷え込み、那覇市の24日朝の最低気温は8.9度だった。(共同)



  1. 2016/01/25(月) 05:14:30|
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ミスマッチ

舞台裏から

繰り返し書いてきたことをまた書く。
「天童の家」は、私の日記である。
毎日の暮らしの中で、(おや?)とか、(感動だなぁ)とか、今年もイチゲが咲いた!など、季節の移り変わり等から得た些細な事象を文や写真で記録する。

長年、毎日更新でやってきた。
楽しいから、長続きする。これが苦しいものだったら、こうは続かなかったろう。
顕著なマンネリ化は否めない。毎日更新の弊害だろう。

「天童の家」の原点は、感動の共有である。毎日の暮らしで出合ったさまざまな感動を、アクセスしてくださった方と共有したいのである。
日常の暮らし、特に散歩中に得た感動を中心に据る。わざわざブログのために行動することはしない。

ここまで来てしまったら、ブログを休むと、平常心を失ってしまう。(苦笑)
暮らしの日記であるはずのブログが、いつの間にか「ブログのための暮らし」になっていることに気づいて愕然としたことがあった。
まさに本末転倒、主客逆転のブザマな姿。ブログ中毒、ブログ依存症である。
十数年間もドップリとネット世界に浸かり続けたのだから、かかるべくして罹った依存症。

「毎日(更新)というのはたいへんだろうなぁ よくもまぁ続くものだ」呆れ顔で言われることがある。
「毎日暮らしてるのだから、たいへんということはない。何かを感じたら、それをネタにすればいい」
その答えにウソはない。
だが、ネタ切れのシンパイはある。

毎日が感動とはいかない。写真も、シャッターを1枚も切らない日がある。
だから、たくさんの画像をゲットした日は、予備画像として保存する。
季節・天候になるべく左右されないのを、ネタ切れの際に使えるようフォルダーにしまう。その数が多いと余裕の気分でホッとする。(笑)

だが、気象情報などを考慮し保存した画像が、想定外の天候で、時制とマッチしないことが出来することがままある。
例えば、この1月は、17日まではなかなか雪が降らず、降ってもわずかの量だった。雪を冠った熟柿を撮って、これは後日使用の画像とフォルダーへ入れる。
ところが、18日からの雪は、冬本降りになって、熟柿はどっぷりと積雪に埋まる。
フォルダーの画像は、ふ~む む 時制にマッチしない。ということになった。

この画像を使うには、へへ 以上に書いたような文があって、ようやく舞台に登場できる次第である。(苦笑)

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  1. 2016/01/24(日) 05:04:30|
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花は咲く 2

辛さの向こうに

今年は雪が降らないなどと幾度も書いて、いかにも雪恋しみたいな気分だった。

だが、18日に降りはじめた雪は、半端な量ではなく、朝にやった雪掻きを、午後に再度やらなければならないほど降った。
雪はずーっと断続的に降って、道路脇には除雪車が置いてった雪が壁のようにつながってる。

もちろん、雪は道路だけでなく、どこにでも降り積もる。(苦笑)
従って、玄関や勝手口からの通路は、除雪し、確保する。雪ベラで雪掻きする程度なら、たいした労力もいらないのだが、スノーダンプで片付けなければならない積雪量になれば、その作業には辛さが伴うようになる。
雪掻き終了後には、汗で濡れた肌着を替えなきゃならない。

冬期間の運動不足を、雪掻きで補っている。そう思って辛さを打ち消す。
しかし、着替えが1日に2回となれば、へへ さすがに運動不足どころか、疲れを覚える。
試しに、雪掻きの歩数をみてみたら、4000歩だった。ただ歩くだけでなく、スノーダンプを使って雪片付けをするのだから、歩くよりは運動量は大きくなる。

毎日8000歩。ふ~む 積雪期の暮らしは、へへ やはり厳しさを感じる。
だが、こうした冬の暮らしを何十年とやってきた。いまさら弱音を吐くわけにはいかない。
とはいえ、やはり老齢の身には、辛いことは辛く感じる。

ふ~む、愚痴になってしまったなぁ もうやめる。
節分までの辛抱だ。節分が過ぎれば、春の足音が遠くに聞こえるようになる。
こういう厳しい冬があるから、来る春が素晴らしく感じるのだ。四季の変化が嬉しい。

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  1. 2016/01/23(土) 10:24:51|
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白菜漬け

18日からの降雪は、断続的に4日間つづいた。
22日も朝方までちらほら舞ってたが、昼前から青空が見えだす。

「白菜、漬けたのがなくなった。ないと淋しい。また漬ける?」昼食を摂りながら妻が問う。
「あぁ、そうしよう」即、応じる。

秋から、もう何桶漬けたろう。白菜は、青菜漬けと違って、仕込んでしまえば短日で食べられる。
青菜漬けは大量に漬けるが、白菜は保存が利くので下屋に並べ、鍋物にもよく使った。
漬物としては、漬かりはじめが美味しいので、なるべく少量ずつ漬けることにしてる。

秋から、これまで何回か漬け込んで食べた。
保存数を確かめたら、まだ10個あった。
5個ずつ漬けるから、あと2回仕込める。食べ尽くす頃には、冬の厳しさも和らぐだろう。

ということで、降り続いた雪の晴れ間に、白菜を天日に当てる。
月末には、美味しい白菜漬けが食べられるはずだ。

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  1. 2016/01/23(土) 05:11:42|
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いざなう雪

雪が、誘う

雪って、不思議だなぁと思うことがある。
四季のなかで、春から秋まではその季節に似合った多彩な色がある。色彩に満ち溢れてる。
ところが、雪が降ればモノクロームの世界に一変し、春から秋までの風景とまったく別になる。
そこに雪の不思議さを感じる。

なにを寝惚けたことを言う、と笑われるかもしれない。
だが、それでも雪の不思議さを覚える。
雪があると、とんと昔(お伽話)や、ポエムの世界に容易に入り込める。

春夏秋には、ほとんど意識にのぼらない詩的な世界が、雪があると、どういうわけか自然に浮び上がる。
先日も、足が山寺に向かい、風車(かざぐるま)を撮ったり、詩もどきを再掲した。
また、雪の音が気になったりして、ブログに書いた。

昨夜(今朝というべきか)は、なぜか雪女のことが浮かんで、妄想世界に遊んだりした。(笑)

恨み節のみ込み笑ふ雪女

はらはらと雪降る夜に雪女

雪が降ると、囲炉裏の周りで聞いた「とんと昔」のいろいろな話を思い出す。
「笠地蔵」も雪の降る夜のできごとだった。
外は吹雪なのに、囲炉裏のまわりは暖かい。
それが実際だったのか、話の世界のことか、曖昧になっている。

雪は、思い出の世界へいざなう不思議なものだ。

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  1. 2016/01/22(金) 05:39:20|
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しんげむほう

心外無法

茶の湯初体験をして、自分の無学・無知を知った。
ここで改めてそれを言うこともないのだが、いまさらと強く感じたのである。(苦笑)
茶の湯は、日本文化の最右翼のはずなのに、今日までそのなんたるかを知らないできた。

もちろん、一度の体験で真髄がわかるはずもない。
茶室の大きさ(広さ)のこと一つでさえ知らなかった。目にするもの(こと)が、みんな初体験なのだから当然である。
茶の湯といえば、真っ先に千利休を思い浮かべるが、っふふ 利休以外にも多くの茶人がいたのを知らない。

「もてなす」とは、どういうものか、考えさせられた。
それにしても床の間の掛け軸一つにも深い意味が込められているのだなぁ

「何と読むのでしょうか?」妻は、掛け軸前で、素直に問う。
若い亭主は(女性の場合でも、亭主でいいのかなぁ)
「求実庵」の掲額が見えるから、庵主かも...... 
庵主さまといえば、尼さんを思い浮かべてしまう

黒髪の美しい彼女は、丁寧に説明してくださる。

禅語に、「心外無法満目青山」(しんげむほうまんもくせいざん)という言葉があるそうです。その意味は、
「心の外に法は無い。これが楽しいとか苦しいとか、そういうルールを作っているのはすべて自分の心なのだ。 目の前の鮮やかな山が見えるのは、見る人の心が澄み渡っているからで、いくら美しい景色があっても心が曇 っていたらそれを感じることはできない。」ということだそうです。

ふ~む、そういうことなんだなぁ
はじめて耳するそのことに、(そうだなぁ)といたく共感する。
それにしても、茶席を仕切るのも生半可ではできないのを識る。

ふ~むむ 一念発起、これからでも茶の湯を習おうか?
などと思うけれど...
「もうムリはしないで」という声も聞こえてくる。(苦笑)

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画像は、文となんのつながりもない。
本格的な雪降り前に撮ったものである。

フォルダーにはまだ以前のが残ってる。
やはりミスマッチになるのだなぁ(苦笑)

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  1. 2016/01/21(木) 05:23:56|
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雪の音

雪降る音

18日、ようやく冬らしい雪が降った。
っふふ なんとなくホッとする気分。
やはり冬は雪降りが自然な気がする。

なんの変哲もない雪降りなのだが、へへ カメラを向ける。
はい、雪がぞくぞく降ってくる、ただそれを撮る。
ん? 雪降りをあらわす言葉って、なにだろう?

なんの気なしに、「ぞくぞくと降る」と書いたが、短詩などでは、よく「しんしん」と表現される。

ちょっと雨音を思い浮かべれば、ぽつぽつ・ぱらぱら・ざあざあ・しとしと・しょぼしょぼ等と書かれる。
いわゆるオノマトペである。
雪の場合は、どうだろう......

ぞくぞくは、どうも俗っぽい(笑)。やはりしんしんかなぁ
他になにがある?

雪やコンコン、こんこん・ちらちら・
しーんと・さくさくなんてないかなぁ(笑)

雨降りには、実際にそれなりの音が伴うけれど、雪には、そもそも音がない。
音はないけど、雨降りと同じくらいさまざまな降り方があるような気がする。
雪降りに音があったら、それこそバラエティーに富んだ世界が広がるはずだ。

写真を撮りながら、そんな埒もないことを思ったのだった。

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追 加

先ほど、hanamomoさんのブログにアクセス
そこで次のようなフレーズに出合い嬉しくなる

   8時前、雪はのんのんと降っていた。

あぁ、「のんのんと」  (いいなぁ)


  1. 2016/01/20(水) 05:18:13|
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椏苑にて


以下は、畏友 時田幻椏さんが詠まれた句である。
この20句で2015年「埼玉文学賞」を受けられた。

かなり難しい句もあるが、琴線に響く、頷きながら繰り返し読む。それが嬉しい。

  「椏苑にて」 時田幻椏

  椏苑在り誰が焚くかや春の香

  梅ふふむ乳房真白く嬰児は赤く

  蹉跌はあの青鮫の嗟嘆や臥龍梅

  熊谷椿寄居て熾烈なる命

  牡丹の重き蕾に腕のふれ

  水撒けば水の香に寄る黒揚羽

  初夏の槻の木下の椅子五脚

  はじめ皆くさ色みどり花も実も

  軽き蚊に空気は重く打てば飛ぶ

  かわほりの天まで昇る気配なし

  億年の表敬蜥蜴我を見上ぐ

  唖蝉の暗に降り初む尿と雨

  雨に虫濡れて鳴く音の濡れてをり

  台風一過一濁も無し月も夜も

  一つ地にゐて荒草の花けふの貌

  自分時渋の熟柿に鳥の寄る

  生き暮れて捨て置く庭に福寿草

  薄き雪陽を待たずして風に消ゆ

  白タイル寒に乾きし鳥の糞

時田さんは、熊谷市で建設会社の社長をなさっておられる。
朝日俳壇掲載の秀句が縁で、ご厚誼いただいている。

年頭には、毎年神宮の絵馬が届く。ありがたいことである。
今年も、干支の申が描かれたすてきなのをいただいた。

上の俳句は、埼玉文学賞を受けられた20句で、絵馬に同封されていた。
「天童の家」で、みなさんに紹介したいとの申し出を快諾くだされた。
嬉しいことである。

ブログ「天童の家」は、大勢の皆さま方の支えがあって成り立っているのを実感する。

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  1. 2016/01/19(火) 05:07:10|
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雪 降 り

薄き雪

  薄き雪陽を待たずして風に消ゆ

上は、畏友 時田さんの句である。

年末年始は、雪がほとんど降らなかった。降った日でも積もることはなく、陽が照れば直ぐ消えてしまった。
時田さんの句の雪は、年末よりももっと先に降ったものだろう。
いや、降った時期を云々することではない。詠まれてるのは時ではなく、事象の儚さにともなう心情である。

わずか17文字で表現する世界の深さ、こころのありようを詠う、詠えることに羨望を抱く。
自分にはできないことなので、なおさら句の味わいに深淵を感じる。
っふふ、つくれない、詠めない者の鑑賞の楽しさである。

句を繰り返し呟いていると、ふ~む どういうわけか虹が連想された。
虹は、夏の季語だから、へへ 雪の句とは遠い距離なはずだが......

せつなさも生きてゐてこそ冬の虹

陽射しに消える雪、そんな毎日がつづいた。
だが、小寒が過ぎると、さすがに陽が照っても直ぐには消えなくなってきた。
気温がさがってきたからである。


秋田のhanamomoさんから、次のようなレスポンスである。
Commented by hanamomo08 at 2016-01-16
>こんのさん
 こんにちは。
(略)
 数日前から大きな道路を除き、真っ白な道になりました。
 これで根雪でしょうね。


根雪
そうだなぁ 
天童の根雪は、もうちょっと先のようだが、早晩根雪になる。

根雪になれば、散歩道も限られてくる。
今のうちにせっせと歩かねば......

*
上は、昨日書いた。

一夜明け、この冬はじめての本格的な雪降りとなった。
十センチを超える積雪で、雪掻きもやる。
まだうんざりするような雪ではない。

ふ~む、やはり根雪になるのかなぁ

↓ 以下の画像は、昨日以前に撮った

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  1. 2016/01/18(月) 09:53:21|
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茶湯初体験


昨日のこと

初釜に招かれた。あらかじめ洋服での許しを得ている。
初釜本番は、私たちの前に済んでいる。ふ~む いわば初釜便乗である。

そもそも茶の湯の作法を知らない私たち、むむ それを承知くだされての招待である。
事前のにわか勉強もせずに、田舎者まるだしでの席となったのは恥ずかしいかぎりだ。
強請ったということではない。が、その招待に断ることもなく気易く応じたのである。

これまで茶の湯の席を経験したことは一度もない。
なのに、怖気づくこともなかったのは、亭主のお人柄が大きかったからである。
興味津々、茶の湯の実態というか、どのような「場」なのかを知りたい気持ちが強かった。

カメラを携行したいと強く思ったが、断念した。

茶の湯 初体験は、想像以上に素晴らしいものだった。
あっという間に1時間半を過ごしてしまった。

礼を述べ、お暇しようとすると、「写真撮りましょう」との言葉をいただく。望外のこと!

はい、初体験は以下のように記録されることになった。

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  1. 2016/01/18(月) 05:53:36|
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パターン的情景

きれいな風景というのではない。それでもなんか気になる情景に出合うと迷わずカメラを向ける。
いつの間にか、そうなっている。
絵葉書的なそれには遠いものだ。

こんなのはちっとも面白くない。
そう言われてもしかたないものだ。

へへ、こういうのが好きなのである。
自然の造形に(ありがとう)を言いながら撮る。

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  1. 2016/01/17(日) 05:46:21|
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ついた足跡


13日早朝、洗濯物を乾かそうと玄関をあけ外に出た時、表の池からデッカイ鳥が飛び去るのを見る。
アオサギが、池の魚を狙っていたのだ。サギの足跡がくっきりと雪についてる。
餌獲り場を立谷川にしている鳥なのに、どういうわけか時折集落の池にやってくる。

池に鑑賞魚を飼っている家では、なんらかの防鳥手段を講じている。例えばネットを張るとか、光る糸を巡らすなど。
「天童の家」では、糸を張ってサギ被害を防いできた。
冬が近づき、池の雪囲いをやった時点で、糸は撤去した。積雪で池が埋まってしまうからである。

ところが、今年は降雪がなく、池は広々とし、泳ぐ鯉が眺められる。
防鳥糸がなくなったものだから、サギにとっては絶好の餌場にうつったのだろう。ぬかりなくやって来た。
13日は、そのことを妻に話しただけで、なんの対策もなしですごした。

14日早朝、またアオサギが飛び立つのを目撃する。
足跡もくっきりとついてる。絶好の餌場とみたようだ。憎っくきアオサギめ! 獲られて堪るものか!
「今日も来てた」妻に報告すると、「ダメ! すぐ糸張って」と叱咤激励(笑)

(鳥だって、やはり喰わなきゃぁならないのだなぁ)と、笑って済ますわけにはいかない。
昨日は、猿の食について書いたが、へへ 猿のそれとはちがう気分である。
生きものは、やはり喰わなきゃならない。
それは分かっている。でも、だからといって家の池の魚が喰われるのを黙って見過ごせない。

というわけで、再度 防鳥糸を張り巡らした次第である。

この時期は、いろいろな鳥たちの姿が目につく。名前が分からないし、動きが疾いものだから、カメラを向ける機会も多くない。
たまに気が向き撮ることもある。よく見れば、はい かわいい。でも、鳥の撮影には、やはり三脚と望遠レンズが必須。
自分の場合は、あくまでも散歩が主で、撮影は従だから...... 

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↑ 13日の足跡     ↓ 14日

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  1. 2016/01/16(土) 05:11:10|
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野生のサルたち


野生の動物たちにとって、冬は厳しい時季である。
寒冷という厳しさに加え、喰うものを見つける難儀さがある。
実りは秋でおわり、冬季は少ない喰い物も雪で覆われてしまう。

人間は、寒冷や積雪の厳しさがあっても、文化に支えられ困窮することは少ない。
生物は、食べなければ生命維持ができない。
人間が動物と大きく違うのは、食料を備蓄できること。

わかりきったことをなぜか書きたい気分で、このブログをやっている。(笑)

散歩の折り返し地点で、サルたちを見た。
裏山から降りてきたサルたちが、道路を越え、こちらの庭先になっている柿の実を喰っている。
山寺へ通じる県道の交通量はけっこうある。横断するにはかなりのリスクがある。
サルたちが安全な裏山に戻るには、その道路を渡らなければならない。

カメラを持って近づいてった時、サルたちはまだ柿の木の下にいた。
なんだか物騒な奴が来た!と、サルたちは道路を横断し、安全な場所に移動はじめる。
道路の向こうから車が走って来る。カメラマンは立ち止まってサルたちの走る姿を写す。

(サルたちの食事を邪魔してしまったなぁ)と思う。
反面、(いい被写体をゲットできた!)との思いもある。

リスクの伴う人里まで、敢えてやって来なければならないサルたちの窮状も思われる。
仔猿たちもいる。10数頭の大きくない群れだ。母猿(後で分かる)もいるし、カメラマンのいちばん近くで動こうとしないで対峙してるのは、この群れのボス猿だろう。
いずれにしても、作物に被害を与える猿という見方はきえてる。

一頭残らず県道を渡り終えたのを確認し終えたボス猿は、カメラマンなどどこにもいなかったような素振りで
塀の向こうに姿を隠す。
時間にすれば、いったいどのくらいだったのか? 短かったような、いや長い時間だったか?
柿の実は、まだ20個ほど枝に残っている。ふ~む、どうせなら全部喰ったらよかったのになぁ

一心に柿を喰っている野生のサルたち、それが見られた(撮れた)という昂ぶりがある。(笑)

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  1. 2016/01/15(金) 05:40:17|
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雪山風景

昨日撮った雪山風景

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この冬は、ほんとに雪が少ないなぁ


  1. 2016/01/14(木) 08:07:36|
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再 会

例年になく降雪が少なくて、小鳥たちは餌探しに困らないはずだ。
だが、りんごはもうほとんど喰い尽くし、柿は熟しきって地上に落果してる。
これまで無視してきたウメモドキの赤い実にスズメ・ヒヨドリ等が来るようになった。

庭のウメモドキに我がもの顔でやってくるのは、スズメより一回り図体の大きなヒヨドリである。
ヒヨドリは、自分の縄張りに入り込む小鳥たちを見ると、激しく追い立てる、テリトリー意識の強い鳥だ。
カラスは、柿を食べるが、ウメモドキは喰わない。だからカラスを追うことはないが、スズメは容赦なく追い立てる。

12日、朝食を食べ終え、ウメモドキを眺めていたら、スズメとは違う鳥がウメモドキにやってき、啄んでる。
鳩よりは一回り半位小さい。ヒヨドリのスマートさがない。カメラを向ける。
画像処理し、以前に見たことがある鳥だ。だが名前が分からない。「検索」する。
しかし、植物と違って鳥はなかなか難しく、まもなくギブアップ(苦笑)

この前見たのは、2010年12月13日だった。5年ぶりの再会。
......はたして、あの時の若鳥だったかは分からない。
でも、忘れずに来てくれたような思いがし、嬉しい。

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↓  過去画像(2010.12.13日撮影)

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↓  過去画像(2010.12.17日撮影)

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  1. 2016/01/14(木) 05:18:38|
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臼作りの里


歳末の雪は、陽が照れば消えてしまう量だった。
新年の雪は、量的にはそれまでとほぼ同じだが、陽がさしても直ぐ消えず、白く見える時間が長くなった。
気温が低くなったからである。

降雪量は、相変わらず少ない。
先日、臼作りをやってる切畑(高瀬地区)へ行った。作業場は休みのようだったので、欅の大木を撮った。
そのついでに高沢集落へ足をのばしたのだが、積雪は少なくブッシュが黒い斑になって見える量であった。

平地だけでなく、山にも積もっていないのに驚いた。このままでは夏場の水不足が憂慮される。
気象情報では、雪ダルマ・マークが並ぶのだが、予報通りにはならない。

高沢集落への途中に見た景色が、水墨画みたいで、いいなぁとカメラを向ける。
だが、眺めたようには撮れていない。口惜しいけれど、しかたない。

「歩いてくる」と出てきたのに、まだなので、仙山線脇の細道を歩くことにする。
意図するものはなにもない。また、こころが動くほどの景色もない。
それでも歩く。歩くことが仕事なのだと、自分に言い聞かせる。歩くのが嫌ではない。むしろ好きだから、歩くことを楽しみながら歩く。(笑)

それなりのこころ(目)で見れば、なんの変哲もない景色もそれなりに楽しめるものだ。
歩き、カメラを構え、流れる雲を眺め、通り過ぎる電車を立ち止まって見送る。
うん、こうやっていられる、ここにいること自体、ありがたいと思える。

歩数計を見る。
3200歩丁度。いつもの半分にも足らない。まぁ こんな日もあるさ。

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  1. 2016/01/13(水) 05:02:34|
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「花は咲く」


さくらは、日本の花。
花見といえば、さくらの花。
毎年、花を見ることが大きな楽しみである。

いつ咲くか。見頃はいつかと気になる。
爛漫の花を待つ。

かなり前から、見頃を知りたいと思うけれども、なかなか難しい。
花が咲くまでに、いくつかの関門をくぐりぬけなければならない。
いろいろな条件を経ての開花だからであり、予想は微妙にズレる。
次にその順序をみてみよう。

春に花が散った後、夏から秋にかけて気温の高いうちに花芽が形成される。
冬が始まると「休眠」に入り、生長は一旦止まる。
休眠した花芽は、一定期間低温にさらされると眠りからさめ、開花準備を始める。いわゆる「休眠打破」。
休眠打破は、この秋から冬にかけて一定期間、低温さらされることが重要なポイントとなる。

春をむかえ、気温が上昇するにともなって、花芽は成長し「生成」に向かう。
やがて生成のピークをむかえると「開花」し、間もなく見頃となる。

さくら花芽の「休眠」・「休眠打破」・「生成」・「開花」は、秋から冬にかけての気温と春先の気温に、大きく関係する。

また、さくらんぼの開花も、さくらと同じような経過をとる。
今年の正月4日に出荷し話題になった天童の花輪和雄さん家のさくらんぼも、次のようにしたという。

昨年の6月上旬から冷蔵庫で休眠させた鉢植えの木240本を、10月上旬に2棟のハウスに移し、春の温度を保ってきたという。
開花期の10月の天候に恵まれ、人工授粉を徹底したことで着果が多く、今年は約100キロ収穫となったのはめでたいことである。

さらに言えば、啓翁桜も同じと考え、温室に入れる前の今年の気温の高さが気になった。
一定期間低温にさらされ、休眠打破することができたのかどうかと...... あの暖かつづきだったからである。

ふ~む 今年の開花はどうなるのか...... 果たして正月に花は見られるのかと、やきもきして待った。

っふふ 幸いに、花は咲いた。

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  1. 2016/01/12(火) 05:45:27|
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風 知 草


自然に還っていける道     山田孝男 毎日新聞 2016年1月11日 東京朝刊

 生があれば死もある。それが自然界である。

 超高齢化社会は死が身近な社会だ。死が遠く、拡大発展が基調だった社会とは違う。死を忘れて進む時代は去った。
死を受け入れて暮らす時代がきた。
     ◇
 フクロウの生態を活写して土門拳賞を受賞(1990年)した動物写真家の宮崎学(66)に、「死」という表題の作品集
(94年、平凡社刊)がある。
 森で見つけたカモシカやシカ、タヌキの死骸にカメラを向け、腐乱、白骨化の過程を記録。死肉をあさる獣や鳥、虫や
微生物の営みを伝えている。
 宮崎は伊那谷(長野県南部)で育った。フクロウのほか、ワシやタカの、知られざる生態を撮って内外に知られた名手で
あり、「自然の中の死」を見つめる思索家でもある。

 なぜ、死を撮るか。
 昨年暮れ、駒ケ根市の仕事場を訪ねて聞くと、写真家はこう答えた。

 「お寺さんに九相図(くそうず)ってのがあるんですよ。死人を供養しないと、犬やカラスに食われてこうなるっていう
9段階の紙芝居なんだけど、現代人こそ見るべきだと思うんですね」
 九相図は、腐乱死体や白骨を凝視して肉体への執着を断つ......という仏教説話とともに発達した。
 日本では中世以来、明治初期まで仏教美術の主題だったが、近代絵画の興隆とともにすたれた。

 宮崎は言う。
 「今の時代、きれいな面ばっかり見ようとするでしょ? カワイイとか、きれいとか、そっちの方向しか見ない。でも、
世界はきれいなものだけでできてるわけじゃない、汚いものだってある。だけど、そっちの方は見ようとしない。世の
中、あまりにもヘンな方向へ行ってるんで、これ(写真集)で見直してほしいと思ったわけです」
     ◇
 世界に冠たる日本の財政赤字の、最大の重荷は社会保障費であり、医療費はその中核を占める。
 もはや治療しても医学的には効果のない、老衰した超高齢者に対する延命治療、過剰医療への疑問がささやかれ
て久しい。

 人生の終わりのための活動を意味する「終活」が新語・流行語大賞のトップテンに選ばれたのは2012年だった。
 人生最後の医療は選択できる。「本人が判断能力を失っても、とにかく生命を維持する」道を選ぶかどうかは、病院
が決めることではない。ましてや政府が指導することでもない。

 長年、地域で在宅訪問医療に取り組んできた旧知のベテラン開業医に言わせれば、「結局、市民の意識の問題」な
のである。
     ◇

 宮崎は写真集「死」の巻末にこう記している。

 「現代において、私たちは、死を単なる物質的な終息として教えられている。しかし、私が撮影した自然の死は、物質
的にも終息することなく、新たな生命に引き継がれていた」
 「(私は)人間が<自然界の一員>として、自然になめらかに還(かえ)っていける道さがしを動物たちの死体によって
探りたかった。生命とはなにか、人間とはなにか、そして自然とはなんなのかということを、死体の写真をとおして知りた
かったのである……」

 年始早々、開幕した国会は社会保障と増税をめぐって紛糾している。
 政党は選挙重視だ。延命治療批判で憎まれたくはない。だが、それでは超高齢化社会は成り立たぬ。財政赤字は、
経済対策だけでは埋まらない。
(敬称略)=毎週月曜日に掲載


とても良い記事なので転載させてもらった
ありがとうございます


  1. 2016/01/11(月) 16:37:11|
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赤錆びる現場

  除染地に自動車・猫車まど赤錆びて光なくして現場に終わる   須賀川市・布川澄夫

 ↑自動車(くるま)・猫車(ねこ)のルビ
  1月4日づけ朝日歌壇より

次は、河北新報からの転載である。

<原発事故>避難者10万人下回る

 福島県は8日、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故による避難者が10万人を下回り、9万9991人になったと発表した。
 内訳は、県内での避難が5万6463人、県外への避難が4万3497人、避難先不明者が31人。2012年5月のピーク時には16万4865人が避難していた。
 避難者数はプレハブ仮設住宅や借り上げ住宅などへの入居者の集計で、避難先で住宅を新築したり、災害公営住宅に転居したりした被災者は含まれない。
 東北の他の2県の避難者は、宮城5万3339人(15年12月末現在)、岩手3万9515人(同11月末現在)。


避難者減少を伝える明るいニュース
そうなのだが、その数字をみれば、まだこんなに大勢の人々がいる!との思いのほうが強い。


河北新報ニュースからもう一つ

 鎌田さん一家は昨年12月23日、いわき市から帰町した。妻久恵さん(44)と長男の一輝君、次男の晄輝(こうき)ちゃん(1)の子ども2人。10歳未満の帰町は初めてだ。自宅は長期避難で傷んだ母屋を解体し新築中で、今は離れに住む。
 「避難生活は精神的に苦しく、早く戻りたかった」と久恵さん。新年を前に帰町しようと一輝君に相談すると、二つ返事でOKだった。「楢葉が好きだから、うれしかった」と一輝君。1日に1度、窓から「楢葉、最高」と叫ぶという。
(略)
 帰町を「予定通り」という夫妻も、晄輝ちゃんが生まれたときは心が揺れた。自宅周辺の空間放射線量は毎時0.1~0.2マイクロシーベルト。「夫婦で調べ、自分たちなりに大丈夫と結論を出した」という。
 小中学校が町内で再開するのは2017年4月。それまで遠距離通学が続く。


空間放射線量は「ダイジョウブ」というけれど...... ふ~む、心底そうなのだろうか、気になる。


焚火することを禁じて原発を再稼働するあわれニッポン      東京都・東金吉一

  仮設に住む孤独死思えば我は傘寿人肌五勺しみじみと酌む     三沢市・遠藤知夫

 ↑ 11日づけ朝日歌壇より


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以上4枚の画像は、3.11の前年に行った南三陸町歌津の海


  1. 2016/01/11(月) 08:20:56|
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おさいと

今日10日は、山形市の初市である。

江戸時代初期にはじまったといわれ、約400年の伝統をもつ山形の風物詩。
最上義光公の時代、山形には定期の市が立つ市日町があり、毎年1月10日に市神祭りとして、十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並ぶようになった。
商業の株を象徴しての「かぶ」、長寿を表す「白ひげ」などの野菜、「初あめ」、「団子木」等の縁起物をはじめ多くの露店が立ち並び、山形市内外から約20万人を超す人出でにぎわう。

兄嫁の実家は、臼作りで有名な切畑である。子どもの頃遊びに行き、手掘りするようすを面白く眺めた。
今は、餅つき機が主流で、木製の臼は少なくなった。
それでも、やっぱり臼と杵で搗く餅がいいというニーズもあり、太い欅の木のみごとな臼が初市に並ぶ。
その臼は、手掘りではなく、機械で作り上げる。やはりそういう時代なのだ。

臼・杵・アオ(掛矢、または木槌)・鍋蓋・俎板・梯子・脚立など、木製品がずらりと並ぶ。
雪舞う寒さの中、自家製木炭を真っ赤にした火鉢に股炙りし、コップ酒を呷りながら威勢のいい売り声を上げる初市風景は、恰好の被写体(風物詩)だった。
妻の実家に手伝いに行き、客と売買交渉中の兄の姿が、その日の夕刊に掲載されたこともある。

今日10日は、天童では「とんど焼き」または「どんど焼き」、または「おさいと」である。
「いわい いわい」とも言う。旧年中の御札や絵馬など、粗末にできない物を燃やし、本年の無病息災を願う。
はい、いわゆる左義長のイベント。

この日は、また子どもたちの健やかな成長を願い、雪灯篭や雪像作り、点灯する。
今年は、干布地区上荻野戸が主会場である。
う~む、だが肝心の雪がない。
雪の少ない年もあった。その際は、山から運んで雪像を作った。だが、今年は山にも雪がない。
こんな年は、はじめてだろう。

点灯式、じゃがバター鍋の振る舞いも企画されてたが...... むむ 残念無念だなぁ

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↑ 画像は、今日の散歩で撮った。
↓ 過去画像から

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  1. 2016/01/10(日) 15:55:48|
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ウソっぽい


「天童の家」をはじめたのが 1999年。「だんご3兄弟」の流行った年である。
その前に、二つのサイトを経ているから、三つめのサイトになる。
前のそれは3年・4年と短期だったが、「天童の家」はすでに18年経つ。
ずーっと毎日更新でやってきた。

定年退職後になにをやったらいいのか迷う人がいると言われる。
「親父にはパソコンがあるから心配ない」
「おとうさん、ダイジョウブよね」
息子と娘がそういうのを耳にし、私は笑って頷いたことを思い出す。

あれから16年。
息子、娘が言った通りに、毎日がダイジョウブの日々を暮らしてる。
これもみんな「天童の家」があるから...... といえば言い過ぎだなぁ(苦笑)

先日も書いたが、「たかがブログ、されどブログ」である。
コメントや拍手をくださる方々に励ましをいただきながらやってきた。
はい、アクセスしてくださるみなさん方は、私の大事な宝者である。

アクセスし、ブログがつまらなければ、拍手もコメントもない。
それだから、拍手やコメントには一喜一憂したことも多い。
みなさんに承け入られるような内容を意識して書いたこともあった。
でも、そういう作為はムダなことも知った。

ブログは、誰のためでもなく、自分のためなのだ。
それ以来、拍手やコメントに拘泥するのをやめる。
他人さまのブログではない。自分が納得できる内容であれば、拍手やコメントの有無に拘ることはない。

あれば、それなりに嬉しい。励みになる。内容の深化につながることもある。それは間違いない。
しかし、ないからといって、うん 悲観することはない。18年間やってきてそう思えるようになった。

「天童の家」を通し、学んだもの、得たことはとても多い。
繰り返しになるが、「たかがブログ、されどブログ」であることは間違いない。


以上の文は、数日前に書いた。

自分で書きながら、どうもすっきりしない。アップを躊躇する気分が強い。
事実を書いたつもりなのだが、本音は別にあるような気がしてならない。

ウソを書いたとは思わないが、どうもウソっぽいのだ。
やなりコメントに拘る気持ちがある。そうだ、それなのに、いかにも無関心のような書き方をしている。
ううぅ である。

弱い奴ほど、強がるものでござんすなぁ(苦笑)
強がってる自分をみるから、っふふ 、本心を書いていないから、アップを躊躇するのだ。

ふ~む むむ というわけである。

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  1. 2016/01/10(日) 05:47:11|
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